きおろしのオフレコ語録

ワードプレス・ブログもやってます。アラカンお気楽女のひとりごと♪

おらが町で見つけた田んぼの中のプチ・パワースポット

別に仏像マニアではないんですが^^;、けっこう家から近いところに何百年も昔に造られたという、古い古い馬頭観音像があるということを聞いたのでチャリンコ漕いで見に行ってきました。

 

あとから知ったことですが、なんでも「顔が三つの観音立像」という非常に珍しいものなんだとか。

 

グーグルマップにも載ってる「おらが町の田んぼの中の観音様」を画像付きでご紹介します。埼玉某所ののどかな田園風景をお楽しみくださいませw

街から離れた田んぼの中にそれはあった

パンデミックを機に買い物は極力地元ですませるようになったんですが、数カ月に一度ぐらいの割合で隣町の大きなショッピングモールにママチャリ漕いで通ってます。

 

だいたい片道30分ぐらいの道のりで、大きな幹線道路沿いをひたすらママチャリを走らせ続けます。しかもノーバッテリーだぜ^^;

 

まわりは水田や畑が続くだけの単調な風景ですが、調べてみたらその途上に興味深いスポットがいくつかあることがわかりました。

 

戦国時代にこのあたりで有力だった武将が築いた城跡と、いつのことだかわからないほど古い時代に作られた「田んぼの中に佇む石の馬頭観音像」という渋い組み合わせ。しかも日本に唯一の珍しいものというではありませんか。

 

このワタクシ、時代劇マニアでもあるのでこの組み合わせには非常に惹かれました。しかもどちらもすぐ近くにあるから買い物ついでに両方同時にまわれるという立地の良さ。

 

思い立ったが吉日でその翌週に訪ねてみました。

 

広大な田んぼの中にポツンと佇む観音像

わっせわっせとママチャリ漕いでおよそ30分。大型トラックの行き交う幹線道路を外れて数分という、田んぼの中にその観音様は静かに佇んでおられました。

 

まわりは一面見晴らしのいい水田地帯で、道路もきれいに整備されていて雰囲気も明るくていい感じ。人通りの少ないうらさびしい一角だったりしたら嫌だなあ~と思っていたのでこれは意外でした。

 

歩道からちょっと畑の中へに入ったところに目指すスポットはありました。観音様へと続く細い参道?がいい味出してます。

 

サルスベリ? 何という木なのかわからないけれど、鮮やかなピンクの花との構図がパーフェクトです。曇りだったのであまりきれいに撮れてないのが残念。

 

高さにして約1m以上はありそうな大きな馬頭観音像で、近くでみるとけっこうな迫力があります。足元にはお花が供えてありました。

 

正式名称は「前耕地観音堂の三面二臀(3つの顔と2本の腕)の馬頭観世音」というそうです。寛文12年造立。地元では「前耕地の北向き観音様」と呼ばれています。

 

え~、顔が3つもあったなんて当日は気づかなかったぞ。グーグルマップに投稿されていた情報では日本で唯一の珍しいものということでした。

 

ささやかながらも供え物がしてあったり、赤い垂れ幕?が真新しい感じだったりすることから地元の方々に大切にされていることが窺えます。

 

そのせいかなんとなく観音様の表情もとても穏やかで、見ているこちらも思わず口元がほころんでしまいそうなやさしくあたたかい空気を醸し出していました。

 

それとも、目には見えない「幸せオーラ」のようなものを発していたのかも知れません。

 

しかし、後から見るとなぜか違って見える。なぜ?!

しかし、今になって画像を拡大して見ると、その表情は決して微笑んだりはしてなくてどちらかというとコワモテっぽく見えることに気づきました。えぇえっ~?!

 


眉毛も目じりも吊り上がってるし、たしかにこれは怒りの表情っぽく見えます。田んぼで見たときにはやさしく微笑んでいるとしか思えなかったんですけどねぇ~。不思議な現象ですね。

 

このあたりには今回訪ねた観音像のほかにも田んぼの緑の中に小さなお社みたいのがあったりして、市街地の風景しか知らないワタシには興味をひかれるものが多かったです。

 

そのお社というのもぜんぜん怪しい雰囲気ではなく、緑まぶしいのどかな田園風景の中にいい感じに馴染んでいました。

 

馬頭観音像に関するトリビアいろいろ

余談ですが、あとから調べてみたら同市内には江戸時代~昭和中期ごろまでにかけて作られたという馬頭観音像が計81体もあることがわかりました。

 

江戸時代に作られたものは観音様が石に刻まれていますが、明治以降の近代に作られたものは石に「馬頭観音」という文字を刻んだだけのシンプルなものが主流になっているそうです。そういえばうちの地元にもそういうのあったな。

 

などと通ぶって書いてはいますが、「馬頭観音とは馬を祀ったもの」ということ以外はいったい何なのかほぼ知らないという愚か者です^^;

 

同市の公式サイトには「牛馬に関係ある職業の講集団(馬持中etc)や個人による造立」という解説がありました。

 

馬持中」というのは聞きなれない言葉ですが、調べてみたら「馬を使って輸送業を営む者たちが形成していた講」とのことでした。

 

」というのも現代人には馴染みのない言葉ですが、「中世から今日に至るまで存在した宗教的・経済的な組織」のことです。もとは社寺の信仰行事を担う集団のことから派生したものですが、徐々にその構成員の経済活動を含めたものへと変化していったということでした。

 

なんか難しい話ですね^^ でも当時の日本人の生活は現代と違って地元の寺社が生活の中心にあったということが窺えるような話でもあります。そういう中の「馬を使った職業に従事していた同業者の寄り合い」によって作られたもの、という解釈でいいのだと思います。

 

意外なところで歴史のトリビアも学べたのでした。

 

蛇足:「寛文」とはどんな時代だったのか。

今回ご紹介した馬頭観音像が作られた時代の年号「寛文」について調べてみたら、1661~1673年の計12年間のことだとわかりました。令和の現在から遡ること350年以上前の江戸時代の初め頃です。

 

こう聞いてもピンとくる方はほぼいないと思うんですが、「寛文」とは第4代将軍・徳川家綱の治世でありました。

 

家綱の名前自体はあまり有名ではありませんが、「徳川家直系の世襲制度による最後の将軍」ということでは案外重要な存在のような気もします。

 

その家綱は徳川家康の孫の「第3代将軍・家光」の長子ですが、正室の産んだ子供ではありませんでした。ちなみに「お犬様将軍」で有名な徳川綱吉と家綱とは異母兄弟の間柄です。

 

このへんのストーリーについては往年の時代劇の名作「大奥」(東映制作。1983~84年にフジテレビ系で放映)のなかで興味深く描かれているのですが、まだ若いうちに世を去っていることからも将軍家綱はあまり身体が丈夫ではなかったのだろうと思います。

 

正確には家綱の治世は慶安4年(1651)から延宝8年(1680)の計30年で、父の家光の死によって後継者となったときはまだ10歳でした。

 

その後40歳のときに病気のため急逝してしまいますが、30歳を過ぎても跡継ぎには恵まれなかったため、その死の直前に松平家から養子を迎えています。

 

個人的な趣味で解説が長くなってしまいましたが、江戸時代の年号って将軍の代替わりで新しいものに変わるわけではなかったんですね。家綱の30年の治世だけでも5回以上も変わっているから、おかげで頭の中は大混乱^^;

 

寛文年間の歴史に残る大きな出来事「天変地異」

話を戻すと、肝心の「寛文年間」は家綱が10歳で即位した10年後の1661年から1673年の12年間です。

 

この時代の大きな出来事としては寛文2年(1662)に近畿地方北部を中心に甚大な被害をもたらした「寛文近江・若狭地震」、翌年3年(1663)に起こった「有珠山噴火」は文献記録に残る同山噴火のうち最大規模のものだそうです。天変地異が多い年だったんですね。

その後の江戸幕府の崩壊~明治維新日露戦争~太平洋戦争~天皇の代替わりetc、と日本が経験した歴史的に重要なイベントや歴史の移り変わりのときもずっと変わらずにこの場所に佇んで、静かに世の中を見守ってきたのだと思うとそれもまた感慨深いものを感じたのでした。

 

とはいえこのあたりはそういった歴史の大事件の影響はほぼ受けていないだろうと思うので、実際にはいつも変わらず平穏な風景を見つめてきたのだろうと思います。

 

アナタの町にもきっとある♪

ママチャリ・ローカルツアーの話題から馬頭観音像が作られた背景、さらに江戸時代の「寛文年間」について触れてみました。新しい発見もたくさんあり、田んぼの観音様のおかげでささやかな癒しとインスピレーションをいただくことができたように思います。

 

忙しい毎日の合間にあらためてまわりを見まわしてみると意外な発見がたくさんあることも実感できた一日でした。

 

皆さまもお近くにこういったスポットがあったら是非一度訪ねてみてはいかがでしょう。意外な発見があるかもしれませんよ。

 

↓↓ 参考までに。おらが町の馬頭観音様はこちら(グーグルマップに載ってます)

前耕地観音堂 埼玉県富士見市下南畑222

 

今日も明日もいい日でありますように~♪